信長と家康に警戒された水野信元の「したたかさ」
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第16回
■時勢を読んだ判断で戦国時代を潜り抜けていく信元
信元は父忠政の死後、知多半島を手に入れるため、今川家及び安城松平家に見切りをつけて織田家へと鞍替えしていました。これは、知多郡を支配下に置くことで、伊勢湾での権益の確保を目指したためだと思われます。それに伴って離縁された家康の母である於大の方を、知多郡坂部城主の久松俊勝(ひさまつとしかつ)に再嫁させています。
そして、常滑水野家には娘を嫁がせて血縁関係を結ぶなど武力だけでなく外交力を駆使し、知多半島を勢力下に置きます。
信元はこのような形で、一時的に織田家から今川家に乗り換えるなど「したたかさ」を見せます。
桶狭間の戦いで今川義元(いまがわよしもと)が敗死すると、その混乱に乗じて刈谷城や重原城を奪取して勢力を拡大しています。また、甥の家康を逃がしてやり、間接的に岡崎での独立を支援しています。これは、三河方面での影響力の確保を狙った行動だったのかもしれません。その後の清州同盟にも関わったとも言われています。
最終的に信元の所領は、東を織田家、西を徳川家に守られるような形となり、環境としてはある意味安定したものとなります。これは、信元による生存戦略が成功しているように見えます。
■信元の立ち位置の危うさ
信元は織田家の与力でありながらも、半ば独立した存在であったようです。15代将軍の足利義昭からは織田家や徳川家と同格の外様衆として認識されていました。
また信元は、1568年の信長上洛の際には信長とは別に個人で朝廷に献金をしていることからも、織田家中では微妙な立ち位置にいたようです。そのため、信長との関係が険悪になった義昭から「武田勝頼(たけだかつより)に協力し信長包囲網に加わるように」という内容の御内書が届けられています。
そのような立ち位置にいたため、武田家からの調略があった可能性は高そうです。信元は織田方として長篠の戦いに参加しますが、戦後に武田家の秋山信友との内通を疑われる事態がおきます。
そして信元は、申開きをする機会を与えられないまま、甥の家康の手によって三河大樹寺において殺害されてしまいます。
家康も信元に代わって弁明をしたという話も残っていないため、信長と家康の同意の元で行われたとも言われています。信元であれば、弱体化した武田家を利用するために密かに繋がりを持っている可能性があると、信長や家康に警戒されたのかもしれません。
■「したたかさ」は見せてはいけない
「したたかさ」は家族や家臣にとっては頼りとなりますが、目上の者からすると不安要素にもなり得ます。
信元の数倍「したたかさ」を持つ家康は、信長が健在の間はおくびにも出さずに黙々と従います。豊臣政権でも、秀吉が健在の間は見せないようにしていました。
現代でも「したたかさ」は生きていく事に必要なため、非常に高く評価されますが、組織内においては警戒の対象ともなり得ます。上司から可愛がられる、裏表があまり見えない人物の方が早く出世する場合もあります。
もし信元も「したたかさ」を上手く隠していれば、信元流水野家の家名も残せていたかもしれません。信元の件を見ると、「したたかさ」は諸刃の剣である事を示す実例だと思います。
ちなみに、信元の庶子と言われる土井利勝(どいとしかつ)は父譲りの「したたかさ」を包み隠せたのか、江戸幕府の最高権力者にまで上り詰め、天寿を全うしています。
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